いけちゃんの悪戯

日々のことをツラツラと綴るブログ

あなたは小説の世界に行ってみたいか?

小説を読んでいると、ふとあるシーンに心を奪われる時がある。ちょうど今読みすすめているのはレイモンド・チャンドラーの『水底の女』なんだけど、作品中の光景とかをイメージすればするほどチャンドラーの生きた時代の風景に魅了されてやまない。

白い排気ガスがリアエンドから煙となってあがった。小さな格好のよい、ブルーのコンバーティブルだった。幌は畳まれ、レイヴァリーの艶のある黒髪の頭がその上に突きだしていた。彼はとても幅の広い白いつるのついた、洒落たサングラスをかけていた。コンバーティブルはブロックを素早く駆け抜け、踊るように角を曲がっていった。 

 なんて事のない(といったらメチャクチャ失礼...!)シーンだけど、この『水底の女』を読んでいて真っ先に心に引っかかったのはこのシーンだ。もちろんチャンドラーの原文の美しさとか村上春樹の翻訳の良さも大いに関係してると思うんだけど、自分自身のなかで「このシーンに惹かれた理由」みたいなものを整理していくと、この場面って個人的にムチャクチャかっこいいっていう結論に至ったんですよね。

もう「ブルーのコンバーティブル」っていう単語を聞いただけでシックでピカピカなオープンカーを連想してしまうし、そんなオシャレな車が街角をなかなかなスピードで駈け抜けてゆく光景って素敵すぎる。ちなみにコンバーティブル(convertible)は「型を変えることができる」の意で、すなわちオープンカーのことなんだけど、チャンドラーがこの作品を世に出した1940年代のアメリカの街ってそんな車が普通に走っていたのかと想像するとチャンドラーとかスコット・フィッツジェラルドが生きた時代(フィッツジェラルドはもう少し昔の1920年代だけど)ってやっぱりメチャクチャにオシャレで、僕のなかで4割増しくらいで輝きを放っている。

 

水底の女

水底の女

 

 

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で、本題はここからで、「もしいつかタイムマシンができて、1920〜1940年くらいのアメリカに行きたいですか?」と問われたら、多分だけど僕はNoと答えるだろうということだ。なぜかというと、僕の頭の中のイメージと当時の光景ってほぼ100%違うし、きっとそのとき僕は「なんか想像してたのと違ったわ」と落胆するに違いない。もっというと、自分の作り上げたイメージが現実の光景とぶつかり合ってあっけなく崩れ去っていくことにおそらく僕は耐えられないし、僕の中でのチャンドラーの世界は4割増しくらいで永遠にキラキラと輝いていてほしいと心から思っている。

ただこの類いの「なんか想像してたのと違ったわ」って現象は生きているなかで、多々あるものだ。もちろん良い意味での、期待を超えるという意味での「想像と違う」ってこともあるだろうけど、ネガティブな「想像と違う」とポジティブなそれの割合っておそらくネガティブな方が圧倒的に多い気がしてる。ネットとかテレビとかで紹介されて知った旅行先とかホテルが、実際に行ってみたら「意外とショボかった」みたいなことってやっぱりメチャクチャあると思うんですよね。

じゃあ、どこにも行かないこと=「リアルを確認しないこと」が正しいことなのかというと、そうではない。大切なのはイメージと現実のギャップに直面した時に、「なんか最初に思ってたのと違ったけどまあ楽しかったね」とできるだけポジティブにポジティブに消化していくことで、それができないと結局はイメージの世界からでしか物事を語ることができなくなってしまうと僕は思っている。何事もやはり実経験なのだ。

自分だけの場所、あるいはイメージ

ただ、もし将来的にタイムマシンが発明されて「あなたの憧れた小説の時代・舞台にいけますよ!」なんてツアーが開催されたとしてもきっと僕は躊躇ってしまうだろうと予想している。自分だけのイメージとか誰かとの思い出とか記憶とかって、日々こねくり回されてカタチが変わったり、時には失われたりするものだけど、自分だけの絶対不可侵な場所でもあるからこそ日々病まずにうまくやっていけてるのでしょう。

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