いけちゃんの悪戯

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見える傷、見えない傷。あるいは、竹内万里子『沈黙とイメージ ー写真をめぐるエッセイ』

実際に写真を見るという行為は、夜空の星をまなざすことに、どこか似ている。 

 上の引用は写真評論家である竹内万里子さんのエッセイ『沈黙とイメージ  ー写真をめぐるエッセイ』から。この竹内さんというお方は、前回のエントリでもほんの少しだけ触れたのだけど、ジョナサン・ドーゴヴニク『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』を翻訳した人です。そこから竹内さんがエッセイを出しているということを知り、今回買って読んでみた訳なのですが、このエッセイがめちゃくちゃ良かったです。

 

沈黙とイメージ -写真をめぐるエッセイ-

沈黙とイメージ -写真をめぐるエッセイ-

 

 

内容としては竹内さんが見てきた、出会ってきた写真作品とその写真家について、およそ12ほどのエピソードが収録されているのですが、とにかく綴られる言葉が美しい。そして、文章と一緒に各章写真が載っており、いわゆるプロの写真家の一枚も同時に楽しめます。ちなみに、僕はプロの写真家の撮った、作品としての写真を見たことがあまりなかった訳なんですけど、こうやって改めて見てみると彼らの感性ってかなりぶっ飛んでることがわかります(もちろん良い意味で、ですよ)。志賀理江子さんっていう写真家の方も同じく収録さてますが、写真によっては鳥肌たちます。

あと余談ですが、僕はソール・ライターが好きで、ちゃっかり写真集も一冊持っているんですけど、今年は写真についても少しずつ勉強していきたいなぁと密かに思っていたりします。素敵な写真家の方がいたらぜひ教えてください。

見える傷、見えない傷

 さて、いくつかのエッセイがまとめられている竹内さんの本書のなかで、僕が一番面白いと感じたのは写真家・土門拳さんについて書かれた部分です。このエッセイを読むまで土門拳さんについて僕は何も知らなかったのですが(もしかしたら、名前くらいは聞いたことがあったかもしれません)、戦前から写真界でかなり活躍されていた方らしく、巨匠と謳われていたそう。そんな土門さんが48歳になって取り組んだ作品集が、原爆投下による被曝者および原爆症に苦しむ人々を収めた『ヒロシマ』という大型作品集です。では、土門さんが当時広島にいたのかというとそういうわけでもなく、土門さんが実際に広島の土地を踏んだのは原爆投下から10年以上が経ってからのことだったそうですよ。そのときには広島は平和記念公園や平和記念資料館ができていたりと奇跡的な復興が進んでいたらしいのですが、依然として被爆者らの苦しみは続いていた。むしろ、政府による被爆者の支援は遅々として進んでいなかったそうです。

土門さんは自ら病院におもむき、様々な原爆後遺症に苦しむ人たちや手術の様子を撮影していきます。が、ここで立ちふさがるのは「見える傷」と「見えない傷」の問題です。見える傷とは、手術の縫合などの生々しい傷であったり、激しい火傷の痕であったりです。一方で見えない傷とは、写真に収められたそれらの傷ではなく、その写真から閲覧者が想像によってのみ見いだせる何かです。そして、その何かは原則的に「わからない」ものなのです。

 

◆◆◆

ここで土門さんの「見える傷」または「見えない傷」問題について述べたのは、僕がカンボジアのトゥールスレン収容所とキリング・フィールドで感じた「わからなさ」は、土門さんが広島で追求しようとした「見えない傷」にけっこう近いんじゃないかなぁと思ったからです。確かに僕はカンボジアに行って、実際の虐殺の跡地を訪れましたがそこでは自分はどこまでも観光客だったし、言ってしまえば通りすがりの第三者に過ぎなかったんですよね。その場において「私」と「あなた」という直接の関係にはどうしてもなれない。言ってしまえば僕は永遠に傍観者なわけです。だから、カンボジアにいた僕の前には沈黙が、わからなさが、見えない傷がずっと広がり続けている。

だけど、第三者である自分が何もできないのかというとそういうことでもないと思っている。

どれほどカメラを医師の視線に重ね合わせようとも、土門は医師のように患部を治すことができないという意味では圧倒的に無力な「第三者」である。土門の写真を見るものもまた圧倒的な無力感と覗き見をしているような居心地の悪さを突きつけられることになる。その意味で土門にとっても読者にとって厳密な「二人称」は成立しない。だからこそ肝要なのは三人称の否定ではなく、三人称でしかあり得ないという側面をどう受け入れるかということなのだが、その事実は結局、土門の凝視の範囲外にとどまり続けた。 

土門さんは徹底したリアリズム写真家だったらしく、写真を加工したり不自然な演出を付け加えることを頑なに拒み続けた人でもあったそうです。だからなのか、土門さんは被爆者の立場や、一方でそれが無理なら身近な関係者(親兄弟や実際に施術する医者)の立場でに立って写真を撮ろうとした(らしい)。が、撮り終えた写真を見返して見るとどうにも納得が行かない。土門さんは自分がどうしてもただの第三者に過ぎない、通りすがりの男に過ぎないという現実に突き当たります。そして、それに伴って映しだされない「見えない傷」の問題にも。

ただ、やっぱりここで考えるべきは竹内さんが述べている、第三者でしかあり得ない側面をどう受け入れるかってことなんですよね。実際問題として。僕もそれに対してうまく言葉で表現することがまだできないのだけど、「第三者だから」、「どうせ、わからないから」といって新たに理解することを放棄することは違うんじゃないかと思ってる。そして、新たな理解のためには一つ「想像する」という行為が大きなカギを握っている。ただ、これもまたうまく表現することができないんだけど、そこには何やら想像する作法があると僕は個人的に思っています。その作法をなんとか時間をかけて身に付けたい(というか言語化したい)というのがこれからの課題というか挑戦なんですけどね。たぶんそのためには、もっとたくさんの場所に行ってみて、たくさんの過去や歴史と向き合う必要があるんだと思います。

追記

と、竹内万里子さんのエッセイから展開して話してきたわけですが、個人的にこの本はかなり気に入ってるということです。読んでいてグッとくる部分がたくさんあって(おかげで本が付箋まみれになりましたが)、またどこか旅行に行ったときとか写真作品に触れる折りに読み返したい一冊です。

あとは、やっぱり「わからなさ」とか「第三者に過ぎないこと」について自分がどうするかとか。いろいろと真面目なことを考えさせてくれた本でもあります。オススメです。

それでは、長かった長期休暇も今日でおしまいです。明日から仕事が始まって、こうやって本をじっくり読んで考える時間が少なくなると思うとちょっぴり寂しいですが、ボチボチやっていきましょうかね。

あと、次の長期休暇(たぶん11月くらい)はもっと遠いところに行ってみたいと密かに考えている。今のところ候補は、モロッコかアイスランドか南アフリカ(クッツェーの小説が面白くて。ロベン島とか行ってみたい)かなぁ。

 

それでは、みなさん良いGWを。僕は死ぬ気で働きます。

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