いけちゃんの悪戯

日々のことをツラツラと綴るブログ

感性はどこからやってくる?

ある小説を久しぶりに読み返してみると、以前読んだときとは異なる感じ方をするものだ。毎年夏休みになるとテレビの金曜ロードショーとかでジブリ作品が再放送されるが、それらを観る度に感じ方が変わるのとどこか似ている。使い古された表現だけど、読書(もしくは映画鑑賞や絵を見ることでも)という営みは、自分を映し出す鏡の前に立つことなのだと思う。そして、映し出されるのは自分の内側・目に見えない部分だ。

 

 

何かを読み返してみて、感じ方や受け取り方が変わる原因は大きく二つあると思うんだけど、一つは「知識」、もう一つは「感性」である。知識は、その作品の歴史的背景とか作家の情報をあらかじめ把握しておくことに近い。例えば、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』がスターリン批判をもとに作られていることを知らなければ、この『一九八四年』の受け取り方はけっこう変わってくると思うし、実は太宰治が芥川賞の嘆願文を佐藤春夫に送っていたというエピソードを知らなければ、それもまた太宰の、もしくは太宰作品の読み解き方は多少なりとも変化してくるに違いない。何はともあれ、作品やアーティストに対する「知識」は積み上げ式で、知識があればあるほど読書は楽しいものになると考えている。

感性はどこからやってくる?

一方で「感性」はどうだろうか。というかそもそも「感性」とはなんだろうか。グーグルで調べてみると「物事を深く感じ取る働き。感受性」と出てくるが、まぁいまいちピンと来ない自分がいる。けっこう長い間この感性とはいったいなんだろうかということをウズウズと考え続けていわけなんだけど、いまだにこれだ!という答えが出せずにいます。

ただこの感性について、すごく大きな影響を与えているものがあると思っていて、それは自分自身の「経験」である。それはどこかに旅行に行ってきたとか、誰かと新しく友達になったとか、これまでにない恋をしたとかいうもので、それらの経験が作品の受け取り方に大きな影響を及ぼすのは至極当然のことのように思える。ちなみに最近は本谷有希子と吉本ばななの小説を読んでいるんだけど、これが読んでいてすごく涙腺を刺激されるんです。そして、面白いのは一年前に本谷有希子、吉本ばなな作品を読んでもちっとも涙腺を刺激される感覚はなかったということです。

いったいこの一年の間に自分に何があったのかというかということだけど、やっぱり一年分の経験値が溜まっていて、それが作品と自分を強く共鳴させる音叉の役割をしている。そこに作品の歴史的背景とか作家生い立ち的な「知識」の面は100%とは言わないまでも、あまり立ち入る隙が無いように思えるのは僕だけでしょうか。

 

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ただ、感性が知識と異なるのはそれが積み上げ式のものではなく、経験とともに変化するということだ。今はたまたま吉本ばななの文章を読んでいてすごいグッときているけど、じゃあ、3年後にもう一度読み返してみて同じく涙腺が刺激されまくるかというと、多分しないような気がしている。おそらくなんだけど、今は「やばい、この登場人物の気持ちめちゃくちゃわかる...!」って思っていても、3年後の自分は吉本ばななの作品をもう少しドライに、「あー、こういうこともまああるよね」くらいにしか受け取っていないんじゃないかなぁ。別にどちらが良くて、どちらかが悪いという話ではないが、要は小説はその時の自分の内側をリアルタイムで映し出す鏡ですよということだ。「やばい、めちゃくちゃ共感できるは泣ける」と思えること、「まあ、こういうことあるよな」と思うこと、「なんかよくわからんな」と感じること、いずれも貴重である。その感情の背景に今の自分が映し出されているのだから。

 

ということで、僕は本を読んでいてグッときた一文とか刺さった部分には付箋を貼っているのですが、最近読んだ本谷有希子と吉本ばななの小説には付箋がいっぱいです。個人的には本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』がとってもとても面白いです。自分が主観的に捉えている自己と周囲の人に客観的に見られている自分の間に大きな乖離があると「イタイ」人になっちゃうんだろうなーって思ったり。この作品は2007年に吉田大八監督によって映画化もされているらしいので、いつか観てみたい。

時代は平成から令和に変わりましたが、新しい時代も素敵な小説、藝術が溢れる時代でありますように!

 

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)