いけちゃんの悪戯

日々のことをツラツラと綴るブログ

「何者」にもならなくていい、と最近思うようになったことについて

少し前の話だが、朝井リョウ原作の『何者』が話題になった。これは就活中の大学生が、就職という一つの選択を迫られるなかで自分とは何か、自分は何者になれるのだろうかという不安にあえぐ姿が描かれていると思う。

ただ、自分が何者なのか。もしくは果たして自分は何者かになれるのだろうかという問いに苛まれるのは大学生だけではなくて、就活を終えた社会人においてもだろう。

「何者」かにならなければならないのか?

僕もたまに自分は将来どうなっているんだろうとか、何者かになっているのだろうかと考えたこともある。が、「何者かになる」ということ自体がナンセンスなのではないかと最近思うようになってきた。

そう考えるようになったことには、一つのきっかけがある。大学生時代にバイトしていた塾の先輩一人いて、その人は今では高校教師として働いているんだけど、ある日授業で、生徒に「皆さんに夢はありますか」と訊いたのだそうだ。子供たちの答えは様々で「学校の先生になりたいです」とか「お金持ちになりたいです」とか「綺麗な奥さんと結婚したいです」とかたくさん出てきたそう。

続けて、その先生は「じゃあ、あなたが学校の先生になったとして、誰からも信頼されず、周りから嫌われている先生だったらそれは夢が叶ったと言えますか」と問う。生徒は「そうは思いません」と答えたそうだ。ここで先生が伝えたかったことは「夢を職業にしていませんか」ということ。もっと言えば、何者かになることを目標にしてはいないかということである。

個人的にも、「夢を職業にすること」はもちろん経験があって、小学生の頃は学校の先生になりたいなぁと思っていた。いま思い返すと何でそんな風に考えていたのかハッキリした理由はないんだけど、目標や夢を聞かれたときに、「何=what」で答えなきゃいけないように思い込んでいた気がする。でも、実際問題として考えなければいけないのは、「何=what」ではなく「どのように=how」である。自分は何者になりたいのかというwhatな問いではなく、自分はどんな人になりたいかというhowな問いの方が出てくる答えは具体的だし、自由だ。なぜなら、何になりたいかは自分がすでに知っている事柄からしか選べないからだ。小学生が自分の夢を聞かれたときに「学校の先生」だったり、野球選手を挙げるのは、単に彼らがそれらの事柄しか知らないからである。人は想像できるもの以上にはなれないのだ。

 

何者かになることについての個人的な意見だけど、僕は別に何者になる必要はないと考えている。ていうか、何者かになる以前に自分は自分だし、それ以上でもそれ以下でもない。今ある自分を自分らしく大切に磨きあげていくことしかできないし、そのプロセスを焦せる必要もやっぱりないと思う。

ただ、それでも「何者かにならなければならない」という風潮は根強い。てか、小さな頃から刷り込まれてきているので、就活生もしくは社会人になってなお自分が何者にもなれていないことに対する不安は無意識にもつきまとってしまうことなのだろう。

少し話はそれるが昔『モテキ』というマンガが流行った。その中で小宮山夏樹という女の子がいるのだが、この子がまあ自由奔放で、主人公のユキオ君を振り回しまくるのだ。彼女の印象的な言葉として「自分の思ってもいない方向に進む人生が好きなの」というのがあってこれは個人的にけっこう共感できるんですよね。最終的に何になりたいのかっていうことはひとまず置いておく余裕さとか、人生を本当に楽しんでいる人の言葉だと思うんですよ。僕も割とこの小宮山夏樹タイプの思考なので、それで誰かを傷つけてしまうことはできるだけ避けていきたいのだけど。

 

モテキ(4) (イブニングコミックス)

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