いけちゃんの悪戯

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【続】本当の「歴史」の話をしよう。/ C・ ギンズブルグ『ベナンダンティ ー 16-17世紀における悪魔崇拝と農耕儀礼 』

前回のエントリの続きになるのだけど、C・ギンズブルグの『チーズとうじ虫』が面白くて、続けて読んだ著者の処女作『ベナンダンティ ー 16-17世紀における悪魔崇拝と農耕儀礼』のノートです。

 

ベナンダンティ―16ー17世紀における悪魔崇拝と農耕儀礼

ベナンダンティ―16ー17世紀における悪魔崇拝と農耕儀礼

 

 

前回取り上げた『チーズとうじ虫』はメノッキオという一人の粉挽屋の裁判記録を扱ったものであったのだけど、本作は16-17世紀にかけて悪魔崇拝の嫌疑で告発された人々の異端審問記録を分析材料にしている。ちなみにギンズブルグは先に「悪魔崇拝」の研究をしており、その途中でメノッキオという人物の存在に行き当たったらしい。その後、別研究で出版されたのが『チーズとうじ虫』となるわけであるが、いずれも支配階級の側からではなく、被支配階級、支配される側の人々から歴史を、もしくは当時の民衆の意識のあり方を訴追しようという試みである。 

「シャツ」を着て生まれてきた者たち

 ベナンダンティとは、16-17世紀のイタリア北東部フリウリ地方の農村部を中心に存在していたある人々の総称である。しかし、果たしてベナンダンティが具体的にいつから存在していたのかどうかを定める資料は残念ながら(今のところ)ほとんど残っていないらしい。彼らは1年に4回、四季の斎日の木曜日の夜に「外出し」て魔女や魔術師と戦う。この「外出」は昏迷状態に陥ることによって「魂が体から抜けでる」ことで行われる。魂が抜けている間、体は死んだようになり、万が一その間に体がうつ伏せにされると魂は戻る場所を失うことになり、肉体は死に魂だけがさまようことになるとされたが真偽のほどは、分からない。「外出し」たベナンダンティは夜に集会を催し、魔女や魔術師と戦うが、その時の武器は「ういきょう」という植物の茎を武器にする。一方、魔女たちは「もろこし」の茎を武器にして応戦するらしい。魔女や魔術師が悪魔のために戦うのに対し、ベナンダンティは神のため、そして農作物の豊穣のために戦うとされている。ゆえにベナンダンティたちが勝利した次の年は、豊作が約束されるそうだ。

ベナンダンティになる資格は一つだけだ。それは「シャツ」を着たまま生まれてくることである。ただ、ここでいう「シャツ」とは本当のシャツではく、羊膜のことである。分娩の際に羊膜に包まれたまま生まれてきた者たちは、生まれながらにしてベナンダンティとして生きる運命に当たるとされ、それから逃れることはできない。一種の「星の下」に生まれたがゆえに彼らは好む好まざるによらず、ベナンダンティとしての人生を歩むこととされてきたらしい。

加えて、benandanti(ベナンダンティ)とはフリウリ地方で使われていた一種の俗語で、bene(よく、うまくを意味する副詞)とandante(行く、を意味する動詞)が結びつけられて作られており、「良き道を行く人たち」という意味で使われていたと考えられている。

 

 

しかし、「良き道を行く人たち」として豊穣のために存在してきた彼らの立場が揺らぎ始めるのは16世紀を迎えてからである。夜に集会を行い、魔女や魔術師たちと戦う彼らの営みの根底が悪魔崇拝にあるではないかと告発を受けるベナンダンティたちが続出することになる。キリスト教司祭らは異端審問を行い、巧みな誘導尋問により、古くから伝わってきたベナンダンティ信仰を悪魔崇拝に同化しようと試みる。

ここでギンズブルグが目をつけたのは、これまで魔女(とされた)人々の告白には関心が払われてこず、魔女狩りの非合理性と残虐さを証明しようとかつての研究者が躍起になっていたことである。魔女の語った話はバカバカしい空想か、あるいは判事の拷問や迷信に強要された結果として無視されてきたらしい。しかし、ギンズブルグは裁判記録の痕跡からベナンダンティの「信仰」の根源を探っていく。

その「歴史」の正当か?

本書で浮き彫りになるのは、『チーズとうじ虫』のメノッキオの時にも見られたような、支配階級/抑圧する側からの圧力によって民衆(ベナンダンティ)の証言が歪めれていく過程である。『ベナンダンティ』を読んでいくにつれて、悪魔崇拝というものが実は

、支配者側から無理やり作られた「虚像」ではないかと思われてくる。もちろん、そうではないかも知れない。ただ、『チーズとうじ虫』と同じく、歴史が常に支配者側と被支配者側双方の交流によって語られてきたとはいえ、その影響力はイコールではない。とあるベナンダンティの裁判において、ミケーレ・ソッペが「修道士さま、分った、本当のことを言います、だがあなたの言葉は分らない、フリウーリの言葉じゃないから・・・」と証言したように、抑圧する側と抑圧される側には社会・文化的障壁のほかに言語的な障壁もあったことは事実である。この落差からも歴史的事実の信憑性は大きく揺らぐように思う。

 

ギンズブルグの著作の魅力の一つは、研究材料のチョイスにあると勝手に感じているのだけど、著者いわく「オカルト的な興味はまったくと言っていいほどない」らしいです...。個人的に悪魔崇拝とか僻地の知られざる信仰とかと言った類の話題はとても惹かれるのだけど、ギンズブルグがそこにまったく関心をもっていないということは、まだまだ自分の読みがギンズブルグの主張にマッチしていないということなのでしょう。

とはいえ、彼の小説的な語り口は作品に世界にグイグイ引き込んできます。この小説的叙述方法もギンズブルグが歴史を語る(もしくは再構成する)上で、重要な役割を果たしているようなのだけど、まだ自分の中で整理しきれていない部分なので、また今後何か書けたらいいなぁと考えています。